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「夜明け告げるルーのうた」〜海面に開いた「傘の花」の彩りに、凝固まった心もほころぶ〜

もう、大手メジャーや、中堅スタジオ、米国に限らず、全世界的に、背景、キャラクターすべて、CGで作り込んだアニメーションが、「主流」となって、実写、実景に見紛う再現が、競われている。そんな流れに、本作は、手描き風で、色彩や、画風の変化も入れて、竿をさす。アニメーションが、元々持っている、キャラクターのみならず、背景や、「物質」の自在な動きに、劇伴や、歌が重なった時、映像世界が奏でる「高揚」が、味わえました。

漫画、小説の原作無しに、オリジナルでアニメに限らず、映像化するのは、今の市場では、大変リスキーなのに、湯浅監督は、目一杯、やりたい事を詰め込んで、がむしゃらだけど、この主人公の様に、思春期の頃は勿論、二世代以上の人生の先輩にも、欠く事の出来ない、短い言葉で言い切れる原始的な想いを、柔らかい線画の絵にのせて綴ります。

廃れつつある港町で暮らす、中学生のカイは、父と祖父の三人暮らし。港町を捨てて、東京に出たのだが、母を残し、父は息子を連れ郷里で、地道に働いている。カイは心塞ぎ、コンピューターで作曲をして、ネットにあげるのを唯一の楽しみにしていた。それを、同級生の遊歩と国夫に気付かれてしまい、彼等のバンド練習に付き合って、離れた小島に出掛けるのだが、カイは、そこで、音につられて現れた、人魚の少女ルーと知り合い、純粋無垢で奔放な彼女に引きずられて、次第に、周囲にも心開くようになる。

ルーが喜ぶ様子に、カイは、バンドに打ち込み、町の祭りで、演奏を披露すると、伏せていたルーの存在も、白日のもとに晒されてしまう。元々、人魚が災いをもたらすと、云い伝えられた町なので、ルーの存在を巡って分断化され、嫌気がさしたカイは、騒動から身を引く。そんな最中、「たたり」なのか、港町に、「災い」が、迫って来るのだった。

思春期の「淡い」出逢いの話から、ファンタジー色溢れる人魚と金づち男子中学生のランデブーに、音楽劇、コメディ・スケッチを差し込んで、家族ドラマ経由のディザスタークライマックスと、ジャンル目一杯のビュッフェ状態。尺は短いのに、中身は充実。

ルーの動きにつられて、初めは、カイだけ踊り出すのが、終盤では、町中トランス状態で、踊りのカッコは、軟体動物のよう。ルーも、リズムに乗ると、尾ひれが、ほどけて、二本足になって、ピルエットとか、決めたりして、体の「カタチ」が、ひとつに定まってない。陽に弱く、海水を立体にして、自在に操るのだが、空間をグニュグニュ、うごめかせたり、海水キューブに小舟を乗せて、クルクルと回して見せたり。昨今は、水も、よりリアルにCGで表現したりする一方で、本作では、部屋の中で、海水が、寒天の様に迫って来る、あり得ない事が、日常空間で「平然」と展開する、おかしみが、その堺も曖昧に映る。

夜中、二人で散歩して、崖付近の公園で、お互いにブランコを漕いでいる動きにあわせて写り込む背景。マウストゥマウスで、無理やり酸素を吹き込まれて、カイは、その「感触」に動揺する間もなく、ルーに海底の散策へ引き吊り込まれる時の、撮影の動きや、色彩や構図で表現される視界の揺らぎ。読むより、見てもらった方のが、早いのだけど、書き留めずには居られない、手描き調ならではの、大事にしたいアニメーション表現の宝庫。ルーのパパの思わぬ、地上での登場シーンは、声を担当する篠原信一さんの、呻きと本人を彷彿とさせる、大袈裟でテンポずれした動きは、箸休め的な可笑しさ。

そして、人魚弾圧派の大人たちの台頭で、ルーたち人魚が、窮地に追い込まれる辺りで、突如として訪れる大災害に、それまで、展開してきた湯浅マジックも、総仕上げとなります。

アニメが、自由に扱える、絵のタッチ、カラー、人物や背景そして、カメラの動きに、音を駆使して、伝えられるのは、単に、その場で起こり得る出来事だけでなく、一つのキャラクターの時の移ろいがある。原恵一監督の「オトナ帝国の逆襲」での、靴の匂いで呼び起こされる、ひろしの半生を回想する場面が、その一例ですが、この「夜明け」でも、柄本明さんが、声を充てている、カイのお爺さんの、長い事呪縛されていた、人魚へのわだかまりが

解けようとする場面に、そのキャラクターの半生が、それこそ、走馬燈の様に、駆け巡るところで目の前に、熱く込み上げて来るものが、ありました。そして、「伏線回収」的に、作品の初めから、自由に立体的にうごめく海水に、色とりどりの傘が開くのを目の当たりにすると、こちらの中にも、花がほころぶようでした。

斉藤和義さんの「歌うたいのバラッド」が、カイたちによって、劇中でも歌われ、本人の歌も、エンディングで流れます。作品ありきで、後付けしてもらったナンバーと違って、作り手が、作品を言い表す歌として、選びだしただけあって、段々と染みて来ます。湯浅監督が、本作を創る動機となった、己の本心のままに、相手に伝えられるかという問いに対する、誠実な答えとなる、良い楽曲ですし、カイと彼の父親を橋渡しするにも、曲が世に出た頃からの時間の経過を見ても、合っていて、アニメーションの表現と並んで、心配りがニクイです。

湯浅監督が、現在取り組んでいるのが、ハートウオームな本作と対極の、「デビルマン」なのですが、カンヌ映画祭で論争のタネを呼んでいる、netflix配信作品になるってのが、チト複雑。

拙文にお付き合い、有難うございます。

シネプラザサントムーン 劇場?ミニシアターセレクション鑑賞63本目